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かつての芸術村構想の発見が、藤野を芸術のまちにした。藤野の歴史が変わった瞬間がそこに/井上憲司さん

証言5:元神奈川県庁職員「都市部なぎさ・相模川プラン推進室」/井上憲司さん

「ここに芸術村をつくろう」

戦時中、多くの芸術家が疎開していた藤野町で、こんな話がされていた。そしてそれが、藤野ふるさと芸術村構想の原点になった、というのは、今ではよく知られた話です。しかし、神奈川県が藤野ふるさと芸術村構想を提案したときには、地元でもこの逸話を知る人はほとんどおらず、芸術家が多く疎開していたという事実すら、ほとんど知られていませんでした。

地域に埋もれていた歴史を掘り起こし、藤野ふるさと芸術村構想を発案したのが、当時、県庁職員として「いきいき未来相模川プラン」を担当した井上憲司さんです。

メッセージ事業の取材を進めていくと「県の担当がけんちゃん(井上さん)だったから、メッセージ事業は面白くなったんだよ」と、ときおり名前が上がるのがじつは井上さんです。いったいどのように藤野ふるさと芸術村構想を打ち立てるに至ったのでしょうか。

ドイツから帰国し、神奈川県庁職員に

西ドイツ国立ハノーバー工科大学建築学科に留学し、博士課程を修了した井上さん。卒業後もそのままドイツに残り、現地の建築設計事務所で働いていました。そこではバーデンビュルテンベルグ州立技術・労働博物館やベルリン銀行、ピッツラー本社ビルなど、都市計画とも関わってくる大規模建築の設計に携わっていたそうです。そして1983年、以前お世話になった地域政策プランナーの田村明先生からの助言により、神奈川県庁に就職することになりました。

その頃、神奈川県は都市計画やまちづくりといった分野でまさにいくつかの大規模な事業を計画しようとしているところでした。井上さんは1983年に都市部都市政策課に入庁し、1987年には「都市部なぎさ・相模川プラン推進室」に配属されました。そして「なぎさプラン」「いきいき未来相模川プラン」「やまなみ五湖ネットワーク整備基本計画」という、当時の神奈川県の三大事業の計画づくりに携わったそうです。そして、首都圏中央連絡道路(圏央道)や国道134号線の整備、堤防工事や河川工事、ダム工事、橋の架け替えなどのハード事業と、藤野の芸術村や各地の県立公園の再整備、それに伴うイベントなどのソフト事業の複合的な計画づくりに携わることになりました。

相模川プランに関しては、いくつかの目的や解決したい課題がありました。たとえば、首都圏中央連絡道路のルート決定、堤防の治水、水質汚濁の改善などです。相模川プランには、自然と人工構造物をどのように共存させるかという重要なテーマもありました。

相模川プランは、流域の13の市町村を対象にした地域縦断型のプロジェクトでした。上流と下流、山間部と都市、そして沿岸部など、地域によって特徴も課題もさまざまですが、相模川というひとつの要素で紐づけると、そこには共通する課題も見えてきました。

まず、水質の浄化ですね。相模川は神奈川県民900万人の水瓶で、良い水質の水を供給できる体制をつくる必要がありました。下流に流れてくる水が飲み水として健全であるためには、上流をきちんと整備して水源地を守らなければなりません。このことについては、どの市町村とも認識を共有することができました。上流と下流はつながっていますから、護岸が整備されれば治水が向上し、地域全域の安全性が確保できます。

そして、高速道路が通れば今まで不便だった南北の縦軸が強化され、地域間の交流が飛躍的に発展します。これが首都圏中央連絡道路が担う、新たな経済交流圏の交通ネットワークの実現なのです。

ただ、そういった基盤整備的なものは大規模ですから、簡単には進みません。堤防を整備するにも土地を買うところから始めなければならないし、市町村の下水が整備されない限り、下流の広域下水処理場は本格的には機能しません。

大規模な事業では成果が出るまでに時間がかかります。県が本気で取り組む姿勢を示し、市町村の県に対する信頼を基に、相互に主体性をもって協働することが重要だと考えます。市民への説明責任を果たし、事業の成果や効果を共有していくことが大切であり、各地域ごとに複数の課題を抽出し、拠点ごとにプロジェクトを提案、解決するための仕組みをつくっていくことにしました。

相模川プランでは、相模川流域の13市町村を下流、中流、上流、湖沼の4つの地域に分け、その中にさらに7つの拠点を設定しました。そこからさらに、わかりやすい住民参加型プロジェクトであることを念頭に、地域の課題を解決する構想を検討・発表しました。藤野・相模湖エリアは最上流の「森と湖と創造の拠点」に指定され、藤野町には「藤野ふるさと芸術村構想」が提案されたのです。

なぜ藤野町に芸術村構想を提案したのか

写真ちょうど中央の丘のあたりが、相模湖インターチェンジ周辺
戦時中の「相模湖大芸術都市」構想の舞台だったと思われる場所

しかし、そもそもなぜ藤野町に芸術村構想を提案しようと思ったのでしょうか。先述のとおり、当時は芸術家が多く疎開していたことは知られておらず、町に芸術の要素はそれほどなかったはずです。

正直なところ、私は、湖沼地域(藤野・相模湖周辺)にどんなプロジェクトを設定したらいいかということについて、かなり悩んでいました。そんなとき、ある人が「山口文象さんの『人と作品』という本の中に藤野の芸術村のことが書いてあるよ」と教えてくれました。

山口文象は著名な建築家で『人と作品』は1982年4月に出版された作品集です(現在は絶版)。その中には、山口氏と交流があった建築家や芸術家らが、亡くなった氏を偲ぶ文章を寄せていました。そしてそのうちのひとりが、戦時中、藤野に疎開していた画家の猪熊源一郎です。猪熊氏は、半ページの短い文章の中で、相模湖畔に計画した芸術村構想について書いていました。以下、その全文を引用します。

戦争も末期のころ、僕は相模湖近くの農家の一室を借りて疎開していた。その前には藤田嗣治さん、佐藤敬君も来ていたが、僕が疎開したあと新制作の仲間である脇田和君もやってきた。そして、中西敏雄君、伊勢正義君、萩須高徳君等がやってきた。 その頃一村が湖底になくなってしまった頃で新しく、今の相模湖が生まれた。湖水を取り巻く丘の上全体を芸術大学を中心の大芸術都市を作ろうという夢を持ったのだった。相模湖の中にプラットホームはもちろん、ヨットハーバーからいろいろとプレイ・レイクに仕上げ、そして丘全体は学校と住宅、つまり新しい思想の都市計画である。文ちゃんをチーフにそれぞれアーティストが力と頭をしぼりつつ毎日のようにプランを考えた。例えば脇田邸は脇田君が、猪熊邸は猪熊が、といったように、街はピカソ通りとか、マチス通りとか、世界の芸術家の名前を全部つけたり、まったくのぼせ上がったものだ。いってみれば、それは立派な都市計画であって「相模湖大芸術都市」といった感じだった。僕たちの眠っていた意欲が忽然と帰ってきたのであろう。そして、日夜このことに夢中にのぼせ上がっていたようだった。

その全体のアイディアを、文ちゃんが図面化した。彼は時どき、わざわざ窓から乗るような不自由な汽車にのって僕たちの疎開しているところまで訪ねてくれた。そして相模湖の丘の上に素晴らしく実現しそうなこの大都市計画を、夜を徹して描いてくれた。その図面が実にきれいで見ていただけでもはや完成したようなうれしい気持ちになったものだった。

この文章を読んだとき、疎開した芸術家たちにより、芸術村の構想が提案されたという歴史の事実を知り、私は芸術村の実現をひそかに確信しました。それともうひとつの理由は、相模湖畔に芸術村構想を描いた彼らの気持ちと同様に、なぜか私にも、神奈川県の水源地と芸術文化の結びつきが、とても自然に感じられたことでした。

さらに、猪熊氏の文章は続き、「この計画は不幸にも実現しなかったが、その計画の美しい図面はいまも神奈川県庁の中に保管されているはずだと思う」と書かれています。私は、私が籍を置く神奈川県庁にあることに、ある種の運命を感じました。

だから、芸術村構想を立ち上げたあとの最初の作業は、県庁のどこかにあるという図面を徹底的に調査することでした。とにかく探しました。知事室の秘書室に問い合わせ、県庁じゅうを探しました。

でも、残念ながら図面は、探しても探しても見つかりませんでした。 おそらくですが、横浜は戦時中に空襲にあって、まちの4割が破壊されました。神奈川県庁も被害を受けているので、そのときに紛失したのではないかと思います。

そこで井上さんはどうしたかというと、当時はまだご存命だった猪熊氏に会いに、都内のご自宅まで伺ったのです。そして、相模湖畔のどのあたりにどんな芸術都市をつくろうとしていたのか、どのような計画だったのかを伺ったそうです。

藤野から相模湖を臨む
新しい橋ができたあと、この古い橋の跡は撤去された

猪熊氏に地図を広げて見てもらったところ、おそらく現在の中央高速道路の相模湖インターチェンジ周辺の見晴らしのいい土地につくろうとしていたのではないかということがわかりました。このあたりには、昭和年にサントリーがワイン酒造の工場をつくろうとして取得した用地がありました。結局、工場はできず、藤野町が1993年に買い取ってイベント会場などに利用していた場所ですが、おそらくそのあたりではないかと推測されました。

山口氏が八王子在住の書生、小町和義氏に宛てた手紙には、実現に向かおうとしている芸術村構想についての記述も残っています。

新制作派(新制作協会の旧名)の猪熊玄一郎はじめ、この派の人たちと私とで、総合芸術研究所を興して、その研究所と私を含めた幹部の居住分を湖畔に建てることになりました。まずドイツのバウハウスのごときものと思えば問題ありません。(中略)理解ある資本家が本腰を入れていますから、どんどん話が進んで、具体的な案作成中であります。

これを読む限りでは、いっときはスポンサーもつき、具体的に計画が進みそうな気配もあったようです。

しかし、新制作協会のメンバーでつくった芸術村構想の図面が、なぜ神奈川県庁に保管されることになったのか。このことについて猪熊先生に尋ねたところ、当時、知事と交流があった人を介して、構想の説明をしたことがあったそうです。「大変美しい図面だということで、一時期、知事室に飾ってあったので、そのまま県庁に保管されていると思ったのだけど」と話されていました。先生は「あの頃は、じつに楽しい夢の話をしていたんだよ。図面があればそのときの様子がよくわかるんだけどなぁ」と懐かしそうでした。

じつは私は、先生にお会いするまでは、先生の記憶を頼りに芸術村の都市計画の復元を試みたいと思っていました。でもお話を伺っているうちに、当時、計画を実現すること以上に大切だったのは、戦争によって見通しの立たなくなっていた未来に対し、疎開していた芸術家が自分たちで構想を練り、そこにエネルギーを費やしたという事実そのものだったんじゃないかという気がしてきたんです。

猪熊先生の訪問を終えた私は、実現を阻んだ、戦争という過酷な状況の中で温められた芸術村構想が「かって藤野町に存在した」という歴史上の事実を尊重し、その歴史を継承しながら、新たな芸術村構想の実現を考えることにしたのです。

企業の協賛を得て、官民連携のアート事業へ

藤野ふるさと芸術村構想について、当時、私はこのように記しています。

地域の活性化と新たなまちづくりを進めるため、森と湖の特性の軸状にふるさと芸術村構想を掲げ、芸術家の育成、地域住民との交流、地場産業の確立、これを目指した芸術文化空間を創造します。また、ソフトの計画として、工芸芸術祭、湖上音楽祭などの開催、あるいは隣接した農地を利用して一昔前に立ち返り、農業体験が楽しめるような観光農園を整備します。

これだけ短い文章にしたのは、ひとつは構想の段階であまり核心に触れてしまうと、さまざまな意見が出て、構想の位置付けが難しくなること。ふたつめは、住民や地域の芸術家との十分なコンセンサスが得られていなかったこと。そして3つめに、芸術村と地域活性化の相関関係は簡単には説明しえないと思ったからです。

当時の町の関係者は、芸術でまちづくりといっても「芸術で飯が食えるのかな!」という感じでしたから。町議会も町役場の職員もみんな同じような疑問をもっていました。

そこで井上さんは芸術村構想の裏付けを説明するレポートを作成。芸術村の基本方針として、地域産業の振興なども盛り込み、地域住民や在住芸術家の説得を試みました。しかし、唐突に芸術村構想を町に持ち込んだ県に対する不信感は、予想以上に根強いものでした。

その傍ら、井上さんは昭和63年度予算に藤野ふるさと芸術村の調査費を盛り込み、ハードとソフトの両面から事業を展開することにしました。ところが、ハード面の調査費は問題なかったものの、ソフト面の調査については県の理解が得られず、予算を獲得できませんでした。

でも、芸術村という特殊なプロジェクトを実現するためには、ソフトとハードを一体的に進める仕組みが必要だと感じていたので、どうしてもソフト面の調査費も用意しなければなりませんでした。

そこで井上さんはどうしたかというと、神奈川県の水源地の恩恵を受けている京浜工業地帯の企業に協力を打診したのです。

神奈川県の京浜工業地帯は、戦後の日本の経済発展の原動力となった重要な産業集積地です。水源地の水の恩恵を抜きにしてその発展はありえなかっただろうし、今後も水源地は健在であり続ける必要がありました。そのような考えをもって相談に行くと、多くの会社が主旨に賛同し、快く協力を申し出てくれました。

たとえばNKK(日本鋼管)で生産されている製鉄は、彫刻をつくる格好の材料です。そこで支援金に加え、彫刻制作に使用する鉄やステンレスを無償提供してくれることになりました。さらにご厚意で、制作に利用する場所、工作機械、職人なども援助してもらえることになったんです。

当時のパンフレットには、ずらりと協賛企業の名前が並んでいます。その数、なんと50社以上です。そして藤野ふるさと芸術村構想は、官民連携のもとに進められることになりました。

藤野町は、人間と自然が共存できるユートピア

野外環境彫刻展で制作された作品は、老朽化などで撤去されてしまったものもあるが、多くは今も残されている

地域住民との関係性に変化の兆しが見え始めたのは、こうしたプロセスを経て、芸術村が実質的にスタートした1988年の「森と湖のメッセージ事業」の成功でした。

県は、1988年9月26日、藤野ふるさと芸術村構想の第一弾のPR事業として、横浜そごう9階の新都市ホールにて「森と湖の国際シンポジウム」を開催しました。水源地の藤野とその水を飲んでいる横浜市民との交流目的に行ったこのシンポジウムには約300人の都市住民が参加。アジアのノーベル賞といわれているマグサイサイ賞を受賞された科学者の川喜多次郎さんやNHK解説員の伊藤和明さん、医師で登山家の今井道子さんをパネラーに迎え、人間と自然をテーマに地球環境について話し合いました。

このとき感動的だったのは、世界的な環境音楽家である、ポール・ウィンター氏が旅行中のロシアからわざわざメッセージを贈ってくれたことです。また、シンガーソングライターのジョニ・ミッチェルさんが、この日のために制作した「LOVE NATURE」の水彩画を送ってくれました。そのおかげで、「I DO(私も共に行動する)」という素晴らしいポスターをつくることができました。

また、その後数年間続くことになる野外環境彫刻展では、国内にとどまらず、世界中から著名なアーティストを招聘して作品を制作・展示しました。オープニングセレモニーには、元環境庁長官の大石武一さんや芸術家の岡本太郎さんも駆けつけてくれたそうです。

同時に開催した野外環境彫刻展にはドイツからニルス・ウド、アメリカからジム・ドラン、韓国から崔・在銀、オーストリアからアロイズ・ラングを招聘しました。地元在住の芸術家にも参加していただきました。

ニルス・ウドは地元でとれる孟宗竹2500本を使い、深さ8m、直径20mの竹の巣をつくってくれました。材料に使った竹は地元の老人会が用意してくれました。この作品は、藤野町の環境への取り組みを世界中にアピールしたことで高く評価されています。

このシンポジウムや野外環境彫刻展はメディアにも注目され、かなり話題になりました。毎日のように新聞やテレビで取り上げられ、町長も頻繁に取材を受けるようになっていきました。彫刻展には県内外から何万人という人がやってきたのだそうです。

町はにわかに活気に満たされました。そして自分たちが暮らす「何もない」と思っていた町が、都市住民からは羨ましがられるような環境であることに気づいたり、県に言われて仕方なくやっていた芸術の取り組みは、世間から見ると注目されるようなプロジェクトなのだと実感したことで、町に対する誇り(シビックプライド)の醸成と芸術村構想への理解が進んでいったのです。

それまで町長は「藤野には産業がない、だから町を活性化するための開発が必要だ」と強く主張していました。しかし私は、藤野町がもっている豊かな自然や歴史も含めて、ここには都会にはない豊かな環境があることを訴えました。藤野町には都市住民やクリエイティヴな人々が求める、自然と人間が共存できるユートピア、桃源郷のような存在感がありました。その結果、地域の人たちが芸術をとおして、自分たちが普段、意識していなかったふるさとへの憧憬や風景の美しさ、自然の豊かさの再発見などをしてくれたように思います。

今では、住民の多くが芸術について拒否反応を示すことはありません。豊かな自然と魅力的な住民に惹かれて、芸術家やクリエイターは次々に移住してきます。そして地域では、メッセージ事業に限らず、ユニークな活動がひっきりなしに立ち上がるようになりました。

芸術村の3つのキーワードは 「人づくり」「ものづくり」「夢づくり」

この河原は、かつて野外環境彫刻展やアートイベントの舞台となった場所

私は、芸術村構想を成功させるために、3つのキーワードを大切にして進めました。

ひとつめが「人づくり」です。芸術村の担い手となるのは、地域在住の芸術家であり市民です。そのためにもまず、町に住んでいる芸術家に呼びかけ、地域の芸術や文化、環境について話し合っていただきました。

また、埋もれた人材の発掘のために、藤野名人アンケートを行い、自薦、他薦ですぐれた技術を持った地元の名人を選んでいただきました。この中には、漬物名人、大工名人、盆栽名人、書道の名人、神輿づくり名人、竹籠名人など20人余りが登録されています。そして、芸術家と名人の作品の展示会を実施しました。毎年開かれる地元在住芸術家展の作品数も年々増えていきました。

最初の芸術祭には約5000人が参加し、それをきっかけに多くの芸術家や外国籍の人が町に移住しました。また、舞台演出家、劇団、音楽家などが集まり、芸術家同士の横の連携で独自の企画が練られるようになりました。ある個人の作家は自宅にアトリエを構え、イベントでは公開の展示も行ないました。そしてこうした活動は、町全体に広がりをみせていきました。 芸術村は芸術家や市民のほか、行政や企業、都市住民など、本当に多くの方々に支えられてスタートしました。今では、こうした参加者全員が芸術村のかけがえのない財産となっています。

2つめに「もの(施設・作品)づくり」です。

芸術村には常に芸術作品制作としてのものづくりの実態が伴います。作品の善し悪しは、その地域の思想や取り組みまで左右します。たくさんの作品を野外や街角に設置すれば芸術村になるというわけではありません。

芸術村は、4つの大きなコンセプトから構成されています。ひとつが「アート・ビレッジ(芸術家コミュニティ)」。これは住まう、つくるという機能です。今では多くの芸術家が住んでくれていますので町全体にアトリエができ、ビレッジが育ちつつあると思います。

また、現在は東京に移転してしまいましたが、オーストリア連邦の教育芸術文化省の肝いりで、1993年、篠原地区にオーストリア・アーティスト・イン・レジデンスの「オーストリア芸術の家」がオープンしました。3ヶ月から半年をサイクルに、常時2~3人の海外の作家が活動していました。ときどき、個展や音楽祭も開催され、小さな国際交流が行なわれていました。

ふたつめのコンセプトは「レジャー・ファクトリー(体験工房・美術教室)」の遊ぶ、体験する機能です。1995年10月21日にオープンした藤野芸術の家がこの役割を担う施設です。施設のオープンを皮切りに芸術村は推進の第2段階のステージを迎えることになりました。11月5日までの2週間に全町で50のイベントが開催され、延べ4万人の来場者がありました。これは人口の約4倍です。

そのほかに、オープンハウスとして芸術家のアトリエを解放したギャラリーが5カ所。また、民間施設としては和竿美術館と人形美術館もオープンしました。

3つめのコンセプトが「ログリゾート」です。これはくつろぐ、交換するといった、滞在型の界隈施設のことです。さきほどお話ししたオープンハウスもそのひとつです。それから観光農園や農業小学校も活動を展開しました。町がふるさと創生資金で温泉を掘り当て、新たな界隈施設として町民や一般に開放されています。

最後のコンセプトが「マイスター・カレッジ(芸術職人養成所)」の教える・学ぶ機能です。マイスター・カレッジとは熟練工、つまり親方のことです。ドイツのマイスター制度を参考にしました。親方を養成する施設ですからそう簡単にはいきません。そこで、マイスター・カレッジの構想実現のために、そこではどういう活動が行われ、どういう人材が必要なのか、先取りする形でイベントで実験することにしました。屋外彫刻には、ときには大きな作品も要求されます。そのため、試験的に行うにも大きな工場と熟練した職人さんが必要でした。

その広い制作スペースと職人さんを提供してくださったのが、さきほどもお話した、京浜工業地帯のNKK(日本鋼管)です。芸術家が描いた、複雑なスケッチを作品に仕上げるのですから、作業は単純ではありません。ハイテクを駆使し、曲げや溶接の方法が検討され、1ヶ月かけて作品が完成しました。本当にご苦労が多かったと聞いています。しかしその甲斐あって、芸術家と職人が何時間も議論し、解決策を見出し、お互いが満足いくものができました。マイスター・カレッジは実現に至りませんでしたが、高度の技巧性、芸術性を持った手工芸職人を養成する学校として、その必要性が求められます。

そして3つめのキーワードは「夢づくり(地域、まちづくり)」です。住民にどれだけの夢を与えられるか。夢があれば、プロジェクトはずっと継続できるし、こういうこともできるんじゃないか、ああいうこともできるんじゃないかと、次の創造に必ず結びついていきます。

創造への挑戦を惜しんで発展した国は、歴史上どこにもありません。現在の著名な観光地や名所旧跡など、文化豊かなまちの実現の陰には、必ず先代の創造の生みの苦しみと前向きな努力が潜んでいることを忘れてはいけません。

今ある環境資源や歴史、文化資源を最大限活かし、芸術村だからこそできる独創的な夢づくりとその実現のためにさまざまな知恵や工夫を持ち込み、長い時間をかけて、美しい文化やまちをつくっていくことが、藤野の課題であり、未来の子や孫への贈り物でもあるだと思います。

芸術村は、形は違っても今も継続されている

藤野ふるさと芸術村構想は、この3つのキーワードを満たしました。そして、1992年に県が手を離したあとも、藤野ふるさと芸術村構想に端を発した「藤野ふるさと芸術村メッセージ事業」は町の事業として残っていくことになり、現在まで地域の芸術活動を支援する目的で途切れることなく実施されています。メッセージ事業があったおかげで生まれた事業やイベントは本当にたくさんあります。

一方で、神奈川県が当初計画した事業の中には、実現することなく終わったものもあります。もともと、現在のような展開は予想していたことなのでしょうか。

藤野では、住民がまちづくりに対しての取り組みをその後もやっていますよね。いろいろな人たちが、芸術村の動きに共感して、自分も何かやってやろうと夢見て活動を始めたり、続けたりしている。そういう意味では芸術村っていうのは、形は違ってもあのときからずっと継続されているのだと私は思っています。

そしてある意味で、これは狙いでもあったんです。 私は、事業が終わったあとの責任はとれないんです。それがどういうふうに動いていくかは、実際にそこに関わる人じゃないとわかりません。住民参加型プロジェクトっていうのは、波紋がさまざまな人々の行動を呼び起こし、共鳴しながら波及していくプロジェクトなんです。

藤野には今も新境地を求めてさまざまな人々が移り住んできています。引き金になった芸術によるまちおこし、そしてその後のメッセージ事業を通じて「こういう場所もあるよ」という情報発信を続けていることに価値があると思います。

私自身、かつて芸術のまちと紹介されていた藤野に興味をもったことで、メッセージ事業のひとつとして開催されていたイベントを訪れ、都心への通勤圏内とは思えない豊かな自然環境と出会う人々の面白さに移住を決めたひとりです。県が打ち立てた芸術村構想を町が受け入れなかったら? いきいき未来相模川プランが終了したあと、事業として継続されていなかったら? 私は移住していなかったかもしれません。メッセージは、確実に届いていました。

芸術村の第一歩は、芸術を媒体として、自然と人間の共生とは何かを考えることでした。それは、一見わかりにくい芸術と日常の接点を探り、人々の中に新しいユートピアの芽を掘り起こすことだったのだと思います。

私は、藤野の環境には、住民の非常に多感な感受性によって創作意欲を刺激し、想像力を豊かにさせる原動力があると感じています。そして芸術家にとっては、そういった芸術文化と自然との共生が可能な場所は、何物にも替えがたいものです。だから藤野は、国際的にも評価される地域なんじゃないかなと思います。

あるいは藤野は、かつて産廃業者に最終処分場として狙われたことがありました。不法投棄や環境破壊に敏感な芸術家は、この状況を阻止するための行動を起こしています。彼らは、芸術を通じて社会の問題に対するメッセージを送ることができる。藤野という地域と芸術との関わりという意味では、そういったことも命題としてあると思います。それらの活動が、自然を守る、きれいな水を汚さないという結果につながり、神奈川県全体の自然環境保全や水源地の利益にもつながっていくことになるのです。

埋もれていた歴史と井上さんの感性、そして豊かで美しい自然とが、地域住民やこの地域に魅了された芸術家らと共鳴し、新たな文化を生み出しました。目の前にある自然や暮らしに価値を見出したことで、藤野はわかりやすい経済発展とは少し違うけれども、けっして冷めることのない、芯からの活気を得たように思います。藤野の自由な雰囲気や感性は、あの頃からずっと、全力で肯定されているのです。

最近、多くの自治体で芸術によるまちづくりが盛んに行なわれています。そこでは、常に芸術と地域、環境芸術と場所性が問題視され、中心のテーマになっています。確かに、芸術作品を置いたから、その町が芸術的で文化的なまちになれるとは思っていません。しかし、芸術という、創造的で美しい可能性を秘めているテーマだからこそ、挑戦のしがいもあると思います。

だから、藤野の持続的な芸術活動を市の行政も支援してほしい。藤野には美しい風景がいくつもあります。空き家も多くの芸術家や文化人に引き継がれ、取り壊されることなく活用されています。佐野川の農家の家も、自然の風景と調和し、凛とした佇まいで美しく甦りました。大規模じゃなくてもいいから、美や芸術の基準をもったまちづくりをこれからもやっていってほしいと思います。

井上さんが見つけた歴史の小さな1ページ。

かつてこの地に疎開していた芸術家たちが芸術村を夢想したという逸話は、ひとつのまちの歴史を変えました。 そして新しい歴史は、川の流れのように今も続いています。たとえ大きな川であっても、その源泉は、小さな小さな湧水です。そして小さいけれども、それはとても澄んで美しいものです。

その源泉が芸術だとするならば、澄んだ美しさがこの先も続くことで、やがて海までもが、美しくなっていくのかもしれません。

記事を書いた人
平川友紀(ひらかわ・ゆき)

リアリティを残し、行間を拾う、ストーリーライター/文筆家。1979年生まれ。20代前半を音楽インディーズ雑誌の編集長として過ごし、生き方や表現について多くのミュージシャンから影響を受けた。2006年、神奈川県の里山のまち、旧藤野町(相模原市緑区)に移住。多様性のあるコミュニティにすっかり魅了され、現在はまちづくり、暮らしなどを主なテーマに執筆中。きのこぷらんにんぐメンバー。元ひかり祭り実行委員会メンバー。ぐるっとお散歩篠原展参加。その他、藤野でのさまざまなイベントや地域活動に関わっている。現在は山々に囲まれた篠原地区の奥地に居住。藤野では「まんぼう」の愛称で親しまれ、藤野地区の魅力を発信し続けている。

未来へのメッセージ