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心豊かにみんなが暮らしていけるまちを僕は「芸術村」と呼ぼう/河内正道さん

証言2:元藤野町役場職員/河内正道さん

まちづくりっていうのはもっと地道なものだし、地域に密着しているものだと思うんです。それが突然、県から「ここを芸術村にする」なんて言われても、なんだかとってつけたような感じがして、藤野のまちづくりとどう関係するのかは、正直よくわかりませんでした。僕は、非常に違和感がありましたよね。

そう話すのは、藤野町役場・企画財政課の職員として、1989年からの約6年間「藤野ふるさと芸術村メッセージ事業」の直接の担当者だった河内正道さん。ちょうど県主導だった事業が町主導の事業へと移管され、その形を変えていく過程に当事者として関わりました。

正道さんは、たまたま異動でメッセージ事業の担当になっただけで、芸術村構想には懐疑的な立場だったといいます。しかし事業が広がりを見せ、まちが盛り上がっていく様子を見るにつけ、徐々に「こういうことがまちをつくっていくということなのではないか」と思うようになっていきました。「現在の藤野を見ていても、それは間違いではなかった」と話します。

こうした行政主導の事業は、どうしても型にはまってしまい、その腰の重さや慎重さが課題となる場合があります。担当者が積極的に事業に取り組もうとしなければ、地に足がつかず、ただの予算消化で終わってしまう可能性もなくはありません。

しかし藤野町役場は、正道さんを筆頭に芸術家を積極的に頼り、信頼し、住民のためという姿勢を貫いて、フレキシブルに事業を進めていきました。その結果、現在の藤野は在住芸術家が300名以上、芸術家以外の移住者もそれ以上に増え、多くの取り組みがあちこちで起こる創造的でアクティブなまちとなりました。

話を聞けば聞くほど、担当者が正道さんであったこと自体が、藤野が芸術のまちとして発展していった大きな理由のひとつだったという気がしてきます。正道さんがどんな思いでメッセージ事業に携わり、そこにどんなまちの未来を描いたのか。今回、改めてお話を伺いました。

寝耳に水の「ふるさと芸術村構想」

ふるさと芸術村メッセージ事業の始まりは、1986年に神奈川県が相模川流域の再整備事業として「いきいき未来相模川プラン」という構想を提案したことに端を発します。流域の市町村ごとにさまざまな事業が計画されており、そこには最上流部にあたる藤野町も含まれていました。

プランの中身は、インフラや公共施設などのハードの整備や開発が中心。けれども藤野町だけは、なぜか「ふるさと芸術村構想」という、なんともふわっとしたソフト面の提案がなされました。水源地で環境保護の必要があり、すぐに使える平地もほとんどない藤野町には、気軽にハードの開発が提案できなかったのではないか、と正道さんは話します。

「ふるさと芸術村構想」の根拠は、戦時中に藤田嗣治をはじめ、たくさんの芸術家が疎開していて、ここでいろいろな活動を展開していたということでした。それをもう1度復活させようじゃないかという提案だったようなんですが、じつは藤野での疎開画家の活動っていうのは、県から提案されるまでほとんど知りませんでした。

というか、藤野の人たちはみんな、かつて疎開画家がここで暮らしていたこと自体をあまり知らなかったんじゃないかと思います。だからなぜ藤野が芸術村なのか、最初はまったく結びつきませんでした。なんだろうこれ、と思いましたよね。

そのうえで、実際に示された計画は「アートリゾート芸術村」という、アートと自然をテーマにしたリゾート整備でした。

具体的には、芸術家のコミュニティスペースとなる「アートビレッジ」、職人を養成する「マイスターカレッジ」、気軽にアート体験ができる施設「レジャーファクトリー」、ログハウスなどを使った宿泊施設「ログ・リゾート」を建設するというもの。まさに夢のような一大リゾートを想起させる内容でした。

だから、町側の受け止めとしては「観光整備」や「観光地化」という位置づけでした。あまりピンときていなかったし、絶対にやらないといけないものでもなかったんだけど、これに取り組むと県から補助金がもらえるんだよね(笑)。バブルが弾ける前だから、神奈川県もまだ財政的に裕福で、億単位の予算が用意されていた。

それで最初の2年間は、ある種の仕掛けとして広告代理店も入って野外環境彫刻をつくったり、大規模なイベントを開催しました。僕は2年目から担当になったんだけれども、正直ずっと、よくわからないなぁと思いながらやっていましたね。

芸術家が独自に活動を始める

国内外から著名な芸術家の作品を集めた野外環境彫刻展は、メディアなどにも取り上げられ、話題になりました。今でいう芸術祭の趣きに近いものでしたが、在住芸術家の参加はごくわずかでした。在住芸術家自体が少なかったこともありますが、代理店を使って仕掛ける商業主義的なイベントに、否定的な意見をもつ人が多くを占めていたのです。

そのアンチテーゼもあって、彼らは1990年に「砂の曼陀羅」というイベントを、メッセージ事業とは一切関係なく独自に開催するんです。僕は芸術村担当だったので手伝いには行きましたけど、補助金はもらわず全部自費。芸術家によるまったくの手づくりでつくられたイベントでした。

今でも、当時を知る芸術家や住民の間で「砂の曼陀羅」は伝説的なイベントとして語り継がれています。芸術家の反骨精神とクリエイティビティによって、唯一無二の独創的なイベントが生まれたのです。それは、藤野というまち(あるいは藤野というまちに暮らす在住芸術家)のポテンシャルとバイタリティを、にわかに予感させる内容でした。

思い込みから事業継続の道を選ぶ

それからしばらく経った1992年に転機が訪れました。それまで潤沢な予算を用意して大規模なイベントを打ってきた県が、事業に一区切りをつけ、後景に退くことになったのです。そのため、以降は町が主導して、事業を継続していくことになりました。当然、町が主導となれば、億単位の予算をつけることは不可能です。予算は一気に10分の1、2000万円まで下がりました。

そこまで予算が少なくなると代理店は関わろうとしない。すぐに手を引きました。それで必然的に、町がほそぼそとやることになったんです。

ここでひとつ、疑問があります。正道さんは当初、芸術村構想に違和感を感じ、担当になったあとも「よくわからないなぁ」と思いながらやっていたと話していました。おそらく町全体にもそのムードがあったはずです。それなのになぜ、県が手を引いたあと、町の財源を使ってまで事業を継続しようとしたのでしょうか

うーん、なんていうのかなぁ。県が「アートリゾート芸術村」っていう計画を打ち出していましたよね。だから僕には、県はのちのちそういうものを整備してくれるんだっていう、ある種の錯覚がありましたよね。町も同じで、県が逐次、整備をやっていくと考えていました。それに引きずられる形で、芸術村メッセージ事業をなんとか続けなきゃ、と思ったんです。

でも実際は、予算なんてなかなかつかないんだよね(笑)。どうなってるんだって町長もいつも気にしてたけど、結局、あの計画の中でできたのは、レジャーファクトリーにあたる「藤野芸術の家」だけなんじゃないかな。

なんと、勘違いと思い込みによって事業を継続していたのです(笑)!

でもこの思い込みからメッセージ事業は継続され、住民の活動を支援する参加型のスタイルへと変わっていくことになるのですから、面白いものです。

金は出すが口は出さない

お金がないから自然と手づくりになって、在住芸術家の活動を中心にしていくことになりました。まずは芸術家の人たちにお願いをして「炎・舞・響・刻」っていうイベントを開催してもらったんだよね。

あの頃は建築家の天野翼さんという方が中心にいて「アートファウンデーション」っていうチームをつくってもらったんです。そこと400万円ぐらいで契約しました。僕らも在住作家展に力を入れたりして、そこからは彼らも積極的に協力してくれるようになっていきました。

そのときに、とにかく住民が自主的にやる活動やこんなことやりたいっていう提案に対しては、小さい活動だろうがなんだろうが、できるだけ後押しするようにしたんです。町が後ろ盾になってくれるっていうのは、少なくとも励みにはなるだろうと思いましたし、たとえ数万円しか出せなくても極力、予算はつけるようにしました。

普通、行政は書類とか領収書を揃えることにすごく厳しいですよね。そこもあまりうるさく言いませんでした。行政からメッセージ事業に振り込んだお金だったからできたっていうこともあるんだけど、とにかく難しいことは言わず、活動を奨励することが最優先。行政の都合で、杓子定規に縛ることはやめたんです。それがある意味でよかったのかなっていうふうに思います。

自由に表現したい芸術家と、さまざまな制約やルールのもと、杓子定規にならざるをえない行政。相反するはずの彼らが良好な協力関係を築けたのには、こうした「金は出すが口は出さない」という藤野町役場の柔軟な対応と懐の深い姿勢にありました。

もちろん、藤野町時代だから可能だったゆるさかもしれませんが、それも、互いの信頼関係がなければ成り立たなかったことでしょう。こうした町の対応によって、補助金申請の敷居は低くなり、やりたいことがあれば町に相談してみる、という空気ができあがり、多種多様な取り組みが生まれていきました。

懐が深いっていうよりも、僕らはただ、芸術とかよくわからなかっただけなのよ(笑)。芸術家っていうのは別世界の人だと思ってたからね。わからないからバックアップに回って、芸術家に言われるがままにやってたっていう、ただそれだけなんだよね。

さらに正道さんは、人材は少しでも多いほうがいいと考え、移住を希望する芸術家への空き家の斡旋をするようになっていきました。メッセージ事業が始まった当時の在住芸術家は、把握されていた数で十数人ほど。それが、正道さんらの役場職員の尽力によって、4、50名ほどに増えたのです。そしてその後は、増加の一途を辿っていくことになります。

今ほど移住が当たり前ではなく、よそ者には厳しかったであろう時代。芸術家に対して多くの空き家を斡旋したことは、アートを軸に町が発展していく大きな原動力となりました。

メッセージ事業は「活動づくり」

そうして、わからないなりに芸術家と交流し、空き家を斡旋し、さまざまな企画をバックアップするうちに、正道さんの意識も徐々に変わっていきました。いちばんのきっかけは、芸術家だけでなく、地域住民までもがいつのまにかさまざまな活動をやり始めたことです。そこで正道さんは、メッセージ事業は「活動づくり」ではないかと考えるようになります。

そのうち、芸術家から刺激を受けて、住民がフリーマーケットや映画鑑賞会なんかをやるようになりました。地域住民が主体で始まったイベントは篠原造形展(現在の「ぐるっとお散歩篠原展」)が最初だったんじゃないかなと思うんだけど、そのあとに続く地域も出てきてね。

ちょっと感じは違うけれども、佐野川の鎌沢地区では「竹の子の里」っていう体験施設ができたり、和田地区では「蔵の里」と名づけてまちづくりの活動をしたり。奥牧野地区では絹織物の歴史を見直そうと「絹の里」という活動が始まって、何年も続きました。

それから「人形浄瑠璃」なんかは、芸術家と住民が協力し合いながらやるというそれまでにない形のイベントになりましたよね。お年寄りが「村歌舞伎」を復活させようと言って、それが実現したりもしました。

これらもある意味でメッセージ事業の影響だったと思っています。それで僕は、これは住民の「活動づくり」みたいなことをやってるのかなと思ったんだよね。

現在も開催されている「ぐるっとお散歩篠原展」の前身となる「篠原造形展」。会場は現・すずかけの家(写真提供:三宅岳)

「芸術村」とはいったいなんなのか。それを言葉で言われているうちはよくわからなかった正道さんでしたが、目の前でさまざまな活動が勃発し、まちに活気が生まれていくのを見ているうちに、ひとつの答えに辿り着きました。

私は、まちっていうのは外からの力で変えるのではなく、地域の中から内発的につくっていくものだと思っていました。それから、できるだけ環境と調和をさせることが大事だとも思っていたので、開発路線にはずっと違和感がありました。

さきほど活動づくりって言いましたよね。実際に、いろいろな活動が起こって内的充実をつくり出すっていうことをやりだしたら「藤野って面白いよね」とか「いつも何かやってるよね」というふうに、だんだん評価されるようになってきたんです。

そうすると、住民のみなさんもメッセージ事業を好意的に受け止めてくれるようになって、さらにいろいろな活動が起こり始めました。そのときに「ひょっとしてこういうことがまちをつくっていくっていうことなんじゃないか」と思ったんです

かつて地元の方は「こんな何もないところのどこがいいんだ?」と移住者に尋ねていました。でも、自分の住んでいるまちが評価されたり注目されることは、やっぱり誰でも嬉しいのではないでしょうか。

藤野に魅力を感じて移住する人、遊びにくる人が増えていき、このまちがどんなにいいところかを語られる…。それは、自分たちが暮らすまちへの誇り(=シビック・プライド)を醸成することにも繋がっていきました。

もっとも、それが受け身で終わらず、自分も何かやろう、やりたいという人がどんどん出てくるというのが、藤野が藤野たるゆえんのような気はしますが。

まちづくり自体が芸術だ

だから僕は途中から、アートっていうのは専門芸術みたいな狭い意味のアートだけではないと思うようになったんです。

もちろんそういうアートをやっている芸術家の人もいます。でもそれだけではなくて、藤野の歴史や伝統文化、あるいは農業や林業、それらに関わる生産文化や生活文化、自然環境、そういう全部も含めてアートと捉えたんです。つまり…、ハード整備は違うなっていう結論に行き着きました(笑)。

そういうものを大事にして心豊かにみんなが暮らしていける、そういうまちを僕は「芸術村」と呼ぼうと。まちづくり自体が芸術で、それならば「芸術村」という構想に違和感はないと感じました。

芸術家の活動が広がり、住民の多種多様な活動が広がり、さらには芸術家と住民との協力関係が生まれて、思いもしないような活動に発展する。正道さんにはそれ自体がひとつの作品のように見えていました。形を変え、常に変化し続ける、ひとつの作品。その気づきは、アートや芸術村の概念自体を大きく変えてしまいました。

僕はね、それは芸術家の人たちに教わった、っていうふうに思うよ。芸術家の人たちはね、じつは生活文化とか自然環境、古いものや歴史的なものをすごく大事にするんだよね。そういうものが大事なんだ、それがアートなんだっていうことは、僕というより、彼らがずっと言い続けていたことだったからね。

この概念こそが、現在の藤野の土台となっています。なぜならその後の藤野には、驚くほどたくさんの、アートの枠を超えた活動が生まれているからです。

さまざまな団体が藤野に拠点を移し、もはや移住者は芸術家に限らずあらゆる職種の人で溢れています。地元住民の活動も活発で、各地域になにかしらのまちづくり活動をする人たちがいます。これがもし、字義どおりのアートに特化した事業だったとしたら、誰もが自由にいきいきと活動する今の藤野の姿はなかったかもしれません。

正道さんが「これぞ芸術村」と考える心豊かなまちのあり方は、今に繋がり、しっかり構築されているのです。

たとえば若い移住者には、半分農業をやりながら半分デザインの仕事をやるとか翻訳の仕事をやるとか、そういう人がいますよね。それからシュタイナー学園パーマカルチャーセンターができたり、トランジションタウンの活動が始まったりもしました。

そういうことも、僕は芸術村の一環ということで、まったく違和感がないんです。どれもが芸術村を形づくっているものだろうなって思います。

「いきいき未来相模川プラン」において、各市町村で実施された事業のほとんどは完結し、その後大きな進展はありません。そんな中、藤野ふるさと芸術村メッセージ事業だけは、当初県が想定した芸術村の姿とは似ても似つかないわけではありますが、30年以上経った今も発展的に継続されています。

だからさ、とってつけたようなわけのわからない県の提案だったけれども、単なるハード整備じゃなくてソフトも含む提案だったから、それが結果としてよかったんだと思う。だってさ、芸術村でしょう。それってさ、人々の生活がここにあるうちは永遠に続くものじゃないですか。

いずれは半農半Xのように、好きなことで月10万円も稼ぎ、あとは自給自足と物々交換で生きていけるようになったら、もっといろいろな人がまちに入ってこられるようになって面白いだろうなぁ、と正道さん。「お金のない人が暮らせたほうが、いろいろな人が入ってこられて面白い」という発想に行き着くあたりが、現在の藤野の価値観をよく表しています(笑)。

もう経済成長の時代とは違う。どんどん経済は縮小していく。だから、地域通貨よろづやなんかの活動も非常に面白いなと思っていて。ああいうふうに、お金を介在させないで問題解決しちゃう相互扶助活動っていうの? できるだけ自分で賄って、賄いきれない分はみんなで助け合ったり融通しあう。そういう社会ができたら、さらに面白いことになるだろうなって、僕は思ってるんだよね。

まちそのものがアートを体現

芸術とは何か。

この問いに、これまでどれだけの人がどれだけの答えを出してきたのでしょうか。正道さんの答えは「みんなが心豊かであること」でした。

以前からよく考えていたことがありました。藤野は芸術のまちと呼ばれているけれども、芸術祭やアート・イン・レジデンスなどで大きな成功を収めているところと比較したら、じつはアートをテーマにしたまちづくりとしては、あまり成功していないのではないかということです。

でもそれは、問いからして大きな間違いでした。
だってそもそも、前提となるアートの定義が違うのです。

藤野というまちは、その成り立ちや巻き起こる出来事を含め、全部でアートを体現しています。字義どおりのアートから始まったまちづくりが、新たなアートのあり方を模索し続け、前例のないまちの形を表現し続けているのです。

(取材・執筆:平川友紀 写真:袴田和彦)

記事を書いた人
平川友紀(ひらかわ・ゆき)

リアリティを残し、行間を拾う、ストーリーライター/文筆家。1979年生まれ。20代前半を音楽インディーズ雑誌の編集長として過ごし、生き方や表現について多くのミュージシャンから影響を受けた。2006年、神奈川県の里山のまち、旧藤野町(相模原市緑区)に移住。多様性のあるコミュニティにすっかり魅了され、現在はまちづくり、暮らしなどを主なテーマに執筆中。きのこぷらんにんぐメンバー。元ひかり祭り実行委員会メンバー。ぐるっとお散歩篠原展参加。その他、藤野でのさまざまなイベントや地域活動に関わっている。現在は山々に囲まれた篠原地区の奥地に居住。藤野では「まんぼう」の愛称で親しまれ、藤野地区の魅力を発信し続けている。

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