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県の提案から町が芸術に舵を切る。芸術村誕生の原点を探る/山崎征男さん

証言1:元神奈川県企画部計画室室長/山崎征男さん

藤野町が「芸術のまち」と言われるようになったのは、1986年、神奈川県が相模川流域を対象とした個別計画「いきいき未来相模川プラン」の中で「藤野ふるさと芸術村構想」を打ち出したことに端を発しています。

その翌年の1987年にはプラン全体が県の総合計画「第二次新神奈川計画」に組み込まれ、構想を実現するべく「藤野ふるさと芸術村メッセージ事業」が始まりました。その後、藤野ではさまざまなイベントが催されるようになり、多くの芸術家が移住してくるなど、芸術のまちというイメージが定着していったのです。

しかし、多くの疑問も残ります。当時、在住芸術家はそれほど多くなく、戦時中にたくさんの芸術家が疎開していたという事実も、地域住民の多くは知らないことでした。また「いきいき未来相模川プラン」は、流域市町村ごとにさまざまな事業が計画されていましたが、その多くはインフラを中心としたハードの開発がメイン。芸術村構想などというふわっとしたビジョンを掲げていたのは、藤野町ぐらいのものだったのです。

今回、当時、県庁の企画部計画室の室長を務め、総合計画策定の責任者でもあった山崎征男さんに、狙いや計画策定の経緯、県における旧藤野町の位置付けの変化について、お話を伺うことができました。

いったいなぜ神奈川県は、藤野町に対して具体的でない「構想」を打ち立てたのでしょうか。県として、いったいどのような期待をしていたのでしょうか。

少々、俯瞰から捉えた話にはなりますが、県が芸術村構想を打ち立てたことが「芸術のまち・藤野」誕生のきっかけとなったのは紛れもない事実です。その原点を記しておくことは、大切なことのように思います。

長洲知事のビジョンと優秀な職員の存在が芸術村を生んだ

山崎さんは総合計画「第二次新神奈川計画」の策定に、責任者として関わっていました。

総合計画には、住宅なら住宅、道路なら道路というように、目的に応じて何十もの個別計画が盛り込まれています。その中には、成功する計画も失敗する計画もあるわけですが、私は「いきいき未来相模川プラン」については成功だったと思っています。そのいちばんの要因は、知事が長洲一二だったということに尽きるんじゃないでしょうか。

長洲一二さんは、経済学者から神奈川県知事になったという変わった経歴の持ち主です。斬新なアイデアをもち、それを実行に移せる人。明るいパフォーマンスで県民からの人気も高く、人が嫌がることにも平気で突っ込んでいくパワーをもっていました。

 

通常、知事に就任すると、自分が県をどうしていきたいのかをアピールするために、県の方向性を示す総合計画を必ずつくります。それは、計画レベルでは知事の最大の使命です。「いきいき未来相模川プラン」は、長洲知事のもとでつくられた総合計画「第二次新神奈川計画」の重点政策でした。それは、相模川というベルト全体を面で捉え、広域を対象にひとつの個別計画をつくるという、これまでにない地域横断型のプロジェクトでした。

当時、こういったまちづくりの個別計画というのは、どの都道府県でも土木部の仕事だったんです。ところが長洲さんは「土木という概念はもう古い」と言って、都市部という新しい部署をつくり、都市の概念のなかでまちづくりをしていこうと考えました。

さらに、何か目玉になる事業はないだろうかと、相模川というベルト全体にいろいろなプランを貼り付け、長いスパンを見据えた面の計画をつくるアイデアが生まれました。タイミング的に、圏央道や湘南新道などの大きな道路計画、海老名のまちづくりなど、相模川流域でいろいろなプロジェクトが進行していたこともあったと思います。

でもこれができたのは、やっぱり新しいことに意欲的に取り組もうとする長洲知事がいたからだと思いますね。

そんな知事の考えを支えるように、東大に新設された都市工学科の1〜4期生が神奈川県庁に入庁してくるという幸運もありました。

東大・都市工学科の初代教授、高山英華さんは非常に実地に長けた人でした。初期の卒業生は大学に残るか国家公務員になる人が多かったんですが、その次に、これからは地方自治の時代になるから、自治体に行って実践しなさいと勧めたんですね。そのおかげで、神奈川県庁にも何人か優秀な人材が入ってきてくれました。

そして、長洲さんがアピールしたかったことに応える形で、それまでは考えられなかった単体の土木事業ではない、新しいまちづくりを実践することができたんです。さらに沿岸じゅうの市町村が主旨に賛成してくれたという経緯もあって、相模川プランはまとめあげられていきました。

知事のビジョンとそれを形にする優秀な職員の存在が、これまでにないプランの実現につながったのです。

「いきいき未来相模川プラン」とは?

ここでもう少し詳しく「いきいき未来相模川プラン」について見ていきましょう。「第二次新神奈川計画」の中で「いきいき未来相模川プラン」の狙いや内容については、下記のように記載されています。

1 ねらい

相模川とその沿岸地域を21世紀へ良好な環境として引き継いでいくため、「水とみどりと文化豊かな人間性回復ゾーン・相模川」をめざし、かながわの県土の骨格として、自然環境基盤である「相模川ベルト」を形成するとともに、沿岸の都市機能集積と都市間相互の有機的連携をはかる社会環境基盤である「相模軸」の形成をはかります。

2 内容・構成事業

(1) 地域形成の基盤となる相模川を中心とした優れた自然環境を保全・創造します。

(2) 地域特性をいかしながら、快適な生活環境の確保と活力あるまちづくりをめざします。

(3) 歴史的・文化的遺産の保全と新しい沿岸文化を創造し、表情豊かな魅力ある郷土づくりをめざします。

3 推進方法

(1) いきいき未来相模川プランは、2025年(昭和100年)を見通した計画として、県、市町、民間の役割分担を明確にし、相互の連携を十分にとりながら推進します。

(2) 事業の効果的な実施をはかるため、県、市町、民間等で構成する「いきいき未来相模川プラン推進協議会」において、総合的な調整、推進をはかります。

(3) 県は、七つの拠点におけるモデル事業の実施、各種イベントの開催等PR事業を先行的にすすめます。

(4) 構成事業については、優先度、熟度等を考慮して短期、中期、長期の事業実施プログラムを設定して実施し、段階的、効果的な推進をはかります。

この推進方法(3)で述べられている7つの拠点のうち、最上流にあるのが「森と湖と創造の拠点」とされた藤野町です。そして、計画のベースとなったのが「藤野ふるさと芸術村構想」でした。他の拠点が、土地の特性や特徴をもとに、公園や施設、まちなみや都市機能の整備といった極めて現実的な事業を推進していたなかで、藤野町には「芸術村」というまったく新しいビジョンが掲げられたわけです。

とはいえ、県にも具体的な計画がなかったわけではありません。「森と湖からのメッセージ事業」と題されたイベント関連事業については、当時制作されたパンフレットで次のように述べられています。

ふるさと芸術村の整備の効果的な推進を図るモデル事業として、藤野町名倉地区を中心にして、行政、地元住民、民間企業の連携と共同参加のもとに、イベントの開催を計画しています。
ここでは水源地としての森と湖の大切さを訴え、人々の心と体の保養資源である水と森をテーマに、これを環境芸術で表現します。そのために国際的な環境彫刻家、ジム・ドーラン、ニルス・ウドの両氏による野外彫刻の製作と展示をはじめ、地元芸術家による彫刻展、地元住民の生活作品展やコンサートなどを行います。
さらに、シンポジウムや出版等のメディア媒体を通して、森と湖からのメッセージを藤野町から発信します。(昭和63年10月実施予定)

イベント開催というのは、ハードというよりもソフトの要素です。この事業は当初の予定どおりに実施され、芸術村は華々しくデビューを遂げました。これが、現在の「藤野ふるさと芸術村メッセージ事業」につながる流れとなっています。

一方、ハード面の取り組みはどうだったのでしょうか。当初のビジョンはまさに夢のようでした。

アトリエや工房、スタジオなどの創作空間付きの住宅、レクリエーション施設、ゲストハウスなどを用意し、芸術家を誘致して芸術家コミュニティ「アート・ビレッジ」をつくること。次代を担う若い人々を対象に、高度な技術を要する手工業職人を養成する学校「マイスター・カレッジ」を創設すること。

町外からのビジターを対象とした創作活動のための施設「レジャー・ファクトリー」や、ギャラリー、ショッピングセンター、アート・マーケットやレストランなどの界隈施設とログキャビンなどの滞在施設を有した「ログ・リゾート」。さらに自然体験や地域文化体験など地域特有の要素も織り交ぜて、一大アート・リゾートをつくろうという内容です。

「レジャー・ファクトリー」については、1995年に「県立藤野青少年の家」があった場所に「県立藤野芸術の家」がつくられ、概ね実現しています。

芸術の家には、気軽に芸術体験ができる工房のほか、宿泊施設やキャンプ場、音楽スタジオ、ホールなども併設していることから、ある程度、他の計画の要素も汲み取っているとはいえるでしょう。しかし、計画通りの施設という意味では、そのほとんどは実現していません。また、芸術家の移住は増えましたが、芸術家コミュニティと呼べるほどの具体的な拠点の創出には至りませんでした。

芸術村構想は、芸術家を育てるシステムを全体像として構築していた点がすばらしかったと思います。ただ、当初の構想ほどは実現できなかったという意味で、私の評価は△です。

こういった事業は民間と市町村と県が一致協力しないとできませんから、うまくいかなかったところはどこかの要素が欠けていたっていうことですね。実際、相模川プランでも、まちづくり系の事業はかなりうまくいったけど、産業みたいなものはほとんど実現できませんでした。

なぜ「芸術村」だったのか

「回帰する球体」中瀬康志
ここで最初の疑問に戻りたいと思います。なぜ藤野町は「藤野ふるさと芸術村構想」というフワッとした構想ベースの計画を打ち出されたのでしょうか。

もともと県は、上流から下流まで、すべてを開発しようという気はありませんでした。なぜかというと、これは完全に都市のエゴなんだけれども「大事な水源だから」ですね。

ただし水源地の有り様として、ただ森林を涵養していればいいというわけではなく、水源機能を壊さない形で定住人口が増える何かができないかと考えました。そこで芸術村構想が持ち上がったわけです。

水源地の豊かな自然環境を守りつつ、地域の発展につながるような方策は何か。それを考えたときに注目されたのが「芸術」だったのです。確かに芸術であればさまざまな解釈が可能ですし、自然派の芸術家が移住してくれれば人口は増え、その自然環境を生かすことにもなるでしょう。やり方次第で、環境破壊につながるほどの大きな開発をする必要もありません。

私が聞いた話では、疎開画家に著名な方がいたこともあって、地元からも芸術でまちを盛り上げたいという意見は出ていたようですよ。

当時、長洲さんがよく言っていたことがあるんですが、鶏が卵から孵るときには、親が外から殻をつつき、雛鳥も同じ時期に中から殻をつつくんだそうです。そうすることで殻が割れて、雛が生まれる。「啐啄同期(そったくどうき)」というんですけれども、つまり藤野には、もともとそういう芽があったということです。

中からは藤野が、外からは県がつっついたから芸術村は実現できた。そこに無理がある計画はやっぱり実現できていないですからね。

「降って湧いたような芸術村構想だった」といろいろな方から聞いていたけれども、そこに目をつけていた住民も少なからずいたようです。そしておそらく地域には、無意識にでも芸術の素養があったということなのでしょう。

疎開画家たちが「藤野を芸術村にしよう」と語っていたエピソードが芸術村構想の根拠になっていますが、疎開画家たちも芸術家が過ごしやすい空気感を肌で感じていた、ということではないでしょうか。

県における藤野町の位置づけの変遷

生まれてまもない頃、藤野の沢井地区に疎開していたことがあるという山崎さん。以前は藤野倶楽部によくテニスをしにきていたり、藤野在住の芸術家に小学校の同級生がいたりと、何かと藤野とは縁があり、今も時折イベントなどに訪れる

総合計画がつくられてから4年後の1991年。「第二次新神奈川計画」の改訂実施計画がつくられます。

実施計画はだいたい5年単位でつくられます。その間にダメなものはダメになり、いいものは思った以上に進んだりということが起きていますから、ローリングといって、5年計画の3年目ぐらいから計画の見直しが始まるんです。

その改訂実施計画の地域整備プロジェクトの中に、藤野町では唯一、芸術村構想が入りました。県にも町にも、5年目以降もこれを大いに押していこうじゃないかという空気があったんですね。

つまり、それまでの事業の様子、結果を見て、継続が決定されたわけです。なにかしらの「いける」という手応えがあったということなのでしょう。「その後、歴代の総合計画の中で、藤野町が芸術村を中心にどう扱われたのかということは、この表で見てもらうと非常にわかりやすいと思います」と示してくれたのは、山崎さんが独自に作成してくださった年表です。
「藤野ふるさと芸術村構想」は、1991年の改訂実施計画でも地域整備プロジェクトとして残りました。その後、1995年に知事が岡崎洋さんへと変わります。このときにつくられた総合計画は「かながわ新総合計画21(新総21)」といいました。

「新総21」では津久井郡全体を、自然と共生する「津久井文化交流都市」にしていこうということで、藤野町からは佐野川・沢井市民農園の整備や藤野ふるさと芸術村構想などが盛り込まれました。ここでは、主体は藤野町としつつ、県として大いにバックアップするということが書かれています。

じつは、ひとつの市町村の事業がここまで具体的に総合計画に書かれているのは珍しいことなんです。長洲さんからの流れがあったからだろうけれども、県としては藤野町にかなり力を入れていたということが、こういったことから見て取れます。

さらに2003年には、知事が松沢重文さんへと変わります。このときの総合計画は「神奈川力構想」です。津久井地区の地域プロジェクトの中では、「住民の手による里山保全」という全体の中に「藤野ふるさと芸術村の新たな推進」ということが書かれています。

さらに「地域資源を活用した観光魅力づくり」の中で、2番目、3番目に藤野フィルムコミッションと藤野ふるさと芸術村が記載されていました。これは、すでに基盤はできているということを前提に、県が事業連携をして後押しをするという位置づけだったそうです。

つまり芸術村というのは知事3代に渡って総合計画の中で継承されてきたわけです。長洲さんがつくって岡崎さんが育て、松沢さんもそれをフォローしてきたんですね。

県として藤野という地域をどう見ているのかということは、正直、山崎さんにお話を伺うまで、あまり考えたことがありませんでした。しかし、総合計画の変遷を見ていくと、県として何を考え、地域のどこに可能性を感じ、何を求めてきたのかがわかりやすく見えてきます。

現在の藤野には個別計画がない

でもね、ここからが問題です。じつは現在の黒岩祐治知事になってからの総合計画「かながわグランドデザイン」では、一行も藤野の話が出てこないんです。つまり現在の藤野には、個別計画がひとつもない。残念ながらそれが現状です。

これは驚きました。県主導で始まった計画は、いつのまにか県の手を完全に離れてしまっていたのです。しかし、これまでずっと名前が挙がっていた藤野町が、なぜ黒岩知事になってからの総合計画からはいっさい消えてしまったのでしょうか。「理由はいくつか考えられる」と山崎さんは話します。

ひとつは、藤野町が2007年に相模原市に合併され、2010年に政令指定都市になったことです。地名が消え、藤野というブランドの求心力が衰えてしまいました。

また、その少し前から、県は環境保全という名目で税金をつくり、全部で100億円ほどの税収を得ていました。それだけ徴収したのだから「ちゃんと環境保全のために使ってくれるんだろうね」「保安林をしっかり整備してくれるんだろうね」というプレッシャーが県民からかけられます。

すると、個別計画は水源涵養などの環境保全が中心となり、芸術村も含め、藤野地域で開発志向を想起させる話をすることが難しくなりました。岡崎知事、松沢知事の頃からすでにその傾向はありましたが、それが近年になり、はっきりと現れたのです。

それもあって、現在の総合計画は水源地と都市部の交流を推進する流れになっています。つまり、長洲さんがプランをつくった時代とは変わって、都市と水源地とが共存する形でやっていこうとしているわけです。

それともうひとつ言えるのは、今は藤野がやっていることを対外的にアピールする人がいないことです。私が知らないだけで、なかにはいるのかもしれませんけど、県から見ると藤野の求心力は下がっているように見えています。

それをもう1回再構築するためには、エリアとして今あるところを絶対に大事にすること。それを引っ張って、もっと中央にいろいろ言って、成果を出していけるプロモーターのような存在が必要です。あとはマスコミをうまく使うことですね。

山崎さんが対外的なアピールやマスコミの重要性を説くのには、理由があります。長年、横浜市(港北ニュータウン)で暮らす山崎さんは、2007年にある住民運動を起こしました。

家のすぐ近くに横浜市営地下鉄グリーンラインの新駅がつくられることになったのですが、その駅名の「葛が谷駅」という響きがあまり良くないこと、葛が谷という町名に住む人が駅の利用者のごく一部で、地域を代表する駅名でないこと、駅自体が葛が谷だけでなく、ほかの地域にかかっていたこともあり、駅名の再考を求めたのです。

すぐに集った300名近い賛成者で陳情に行ったんですが、それを新聞が記事にしてくれたんですね。そこから、99%決まっていた駅名が変わって「都筑ふれあいの丘駅」になりました。

あとで聞いたんですけど、新聞に出たことが決定打で、検討し直して駅名を変えることにしたそうです。だから、マスコミに取り上げてもらうっていうのはすごく重要なんですね。そうしないと、注目されなくなってしまうわけです。

「都筑ふれあいの丘駅」にて

行政って常に目新しいことを追ってる面があるから、やっぱりずっと芸術村っていうだけじゃダメなんです。そこに第二フェーズがあるならいいんですけど、そういう局面がないのであれば、何か新しいことを打ち出していかないと注目してもらえません。人をえっと思わせるようなことをやることで、次のステップが用意されるんです。

私は、地名が消滅してしまった藤野町がひとつのエリアとしてアピールできるパワーをもち続けるには、行政や有力団体のバックアップの保証がないと、この先どうなるのか怖いところがあると思うんです。

藤野に求められる新しさとアピール力

逆に考えれば、それだけ芸術村構想が「定着した」ということだとは思います。ただ、そのかわりに新しいこともなくなってしまっているんですね。

現在の藤野は行政の力に頼らず、市民の自発的なアクションによって、さまざまなイベントや活動が生まれています。芸術にとどまらない分野にまでその影響は波及し、ますますローカルになっていく種々の取り組みを、私は個人的にはとても面白いなと感じています。

でもそれは、見方を変えれば閉じているといえるのかもしれませんし、行政など、外部と連携する余地ができている、ということでもあるのかもしれません。声を上げなければ、この面白さにも、誰も気づいてはくれないのです。

絵だけ描いて、結局できなかった事業はいっぱいあります。

だから、これだけ人が定着して、30年以上経った今もイベントがたくさん開催されているというのはすばらしいことです。そういう意味では、芸術村は△だって言いましたけど、成功事例といってもいい。

あとは将来を見据えて新しいことも打ち出していき、それを世間にもうちょっとうまく知らせる手立てが必要なんじゃないかなと私は思います。

それから山崎さんは、こんなふうにも言いました。

私はこれまでいろいろな事業をやってきました。やってきて思うのは結局ね、最後は「人」です。さっきプロモーターって言いましたけど、本気になってやってやるぞという気概のある人こそが重要なんです。別にむやみに開発する必要はありません。今の藤野や藤野の環境が、みんなにとって魅力あるものだと思ってもらえるよう、知名度を上げていって、頑張っていただきたいですね。

結局は、人。

県も、町も、住民も、移住者も、多くの人がこの藤野で出会い、つながり、さまざまなアクションを起こしてきました。藤野ふるさと芸術村構想が今も根付いているのは、そうした人々の行動や思いの連なりなのです。

原点を知った今、改めて、多様性が溢れている場所にこそ新しさは生まれるものだと痛感します。

(取材・執筆:平川友紀 写真:袴田和彦)

記事を書いた人
平川友紀(ひらかわ・ゆき)

リアリティを残し、行間を拾う、ストーリーライター/文筆家。1979年生まれ。20代前半を音楽インディーズ雑誌の編集長として過ごし、生き方や表現について多くのミュージシャンから影響を受けた。2006年、神奈川県の里山のまち、旧藤野町(相模原市緑区)に移住。多様性のあるコミュニティにすっかり魅了され、現在はまちづくり、暮らしなどを主なテーマに執筆中。きのこぷらんにんぐメンバー。元ひかり祭り実行委員会メンバー。ぐるっとお散歩篠原展参加。その他、藤野でのさまざまなイベントや地域活動に関わっている。現在は山々に囲まれた篠原地区の奥地に居住。藤野では「まんぼう」の愛称で親しまれ、藤野地区の魅力を発信し続けている。

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