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今の藤野は違った価値が少しずつ重なってできている/中村賢一さん

証言3:一般社団法人藤野エリアマネジメント代表理事・元藤野町役場職員/中村賢一さん

確かに「アートスフィア(※藤野ふるさと芸術村メッセージ事業の別称)」は、藤野が今みたいになっていく原点だよ。でも、そこからどんどん時系列に面白い展開になって、まちが様変わりしていったのが大事なところなんだよ。だからアートスフィアだけを切り取って紹介するのは、俺は違うと思う。

インタビュー冒頭、そう話したのは「一般社団法人藤野エリアマネジメント」代表理事の中村賢一さん。

賢一さんは2004年まで藤野町役場に勤めており、メッセージ事業はもとより「パーマカルチャーセンター・ジャパン」や「シュタイナー学園」の誘致も積極的に推し進め、まちの発展に尽力してきた方です。現在は行政から民間へと立場を変えましたが、変わらず地域と移住者の橋渡し役となっており、困ったときはまず賢一さんに相談するという人はあとを断ちません。

 

確かに賢一さんが言ったとおり、もともと芸術で注目され始めた藤野は、もはや「芸術」という枠だけには収まらなくなっています。まちづくり、コミュニティ、教育、農、子育て、福祉、地域活動…。あらゆる分野でさまざまな取り組みが同時多発的に起こっているのです。

 

なぜ藤野は芸術の枠にとどまらず、ここまで多彩な人が集まり、賑やかなまちへと成長を遂げたのでしょうか。ここでは、長きに渡りその歩みを見続けてきた賢一さんとともに、メッセージ事業が始まってから現在までのまちの変遷とその歴史を辿っていきたいと思います。

ただのベッドタウンが突如、芸術村に

「いきいき未来相模川プラン」内で、藤野ふるさと芸術村構想が打ち出されたのが1986年。準備期間を経て、ふるさと芸術村メッセージ事業が実際にスタートしたのは1988年のことです。でもじつは、1980年代前半からプレ的な動きはあったといいます。

当時は「陣馬・相模湖音楽祭」というのをやっていてね。それと1983年に疎開画家の遺作が出てきて、疎開画家展を開催するんだよ。それが週刊誌に掲載されて話題になった。 このふたつが評価されて「いきいき未来相模川プラン」のなかで、藤野ふるさと芸術村構想が提案されるんだ。

「いきいき未来相模川プラン」内の多くの計画が都市インフラの整備を主目的とするなか、藤野だけが、なぜか毛色の違うふるさと芸術村構想。その理由は、上記ふたつの芸術に関する取り組みが評価されたことに加え、神奈川県にとって大切な水がめ、相模湖を守る必要があったためでした。

きれいな水を守って都市部の人間に送り出す社会的使命のために、環境を破壊しかねない都市インフラの整備という方向にはいかなかったのです。

だけど、それまでの藤野はただのベッドタウンだったんだよ。1970年代の高度経済成長期に、土地が分譲されて人口が増えた。でもみんなサラリーマンで、非積極的に藤野にきた人がほとんどだったんだよね。

不動産の価格がどんどん上がっていた頃、都心への通勤圏内で家を買おうとした人たちが郊外へと下っていき、藤野にも多く移り住みました。本当は都内に建てたかったけどなんとか買えそうな金額が藤野だった、という話は、その時代に移住した方々から聞いたことがあります。

つまり、藤野町には芸術の要素はたいして多くありませんでした。最初はただ、県の計画ありきで、言われるがままに事業を始めたというだけだったのです。

第1期:行政の強力なリーダーシップ

ニルス・ウド「bamboo nest」(写真提供:三宅岳)

第1期は1986年から最初の5年間で、ポイントは「行政の強力なリーダーシップ」。

県主導で進められた野外彫刻展は3年ぐらい続いたんだけど、県は世界中の著名な芸術家の環境彫刻を展示すればここに人がくるだろう、そのまわりにアートヴィレッジをつくれば、まちの発展につながるだろうって考えたんだよね。それが芸術村構想の当初の想定だったわけ。

そのときは、正直そんなことをしてまちにとって何が得なのか全然わからなかった。ほかの職員もそこは一緒だったと思うな。

当初の県の構想について、職員はもとより多くの住民は懐疑的でした。実際、こうした大規模な事業への疑問と反骨心から、1990年には「砂の曼陀羅」という在住芸術家による初めてのアートイベントも開催されています。

でもね、これは今思えばなんだけど、お金や技術、知恵がなければできない投げかけ方だったんだよね。つまり、県でなければできない第一義的な役割があった。これが、今日の藤野を生み出した最初のインパクトだったことは間違いないと思うよ。

もし県が仕掛けなければ、あるいは最初から予算がない小規模な事業だったとすれば、その後、町が芸術に力を入れようとしたり、在住芸術家が敏感に反応したりしていたでしょうか。県がお金をかけ、引っ張る形で動いたことで、住民のなかにも(ポジティブであれネガティブであれ)芸術に向き合う姿勢が芽生えていったのです。

第2期:ゆるやかな行政主導と市民参加

でもね、1991年だったかな。環境彫刻も置いたし、芸術の家の建設も見通しがたってきた。圏央道もつくりはじめて、水源を守る役割も意識できた。それで「役割は果たした」っていってね、県が早々に事業から撤退するんだよ。

その結果、メッセージ事業の予算は町の負担となり、10分の1の2000万円まで減りました。町は少ない予算で何をやるのかを考え、それまでの大規模なイベントとは趣を変えることにしました。地域住民(在住芸術家)のアート活動やイベントを支援する事業として継続していくことにしたのです。

この、町に事業が移管した1992年から相模原市に吸収合併されるまでの2007年が第2期にあたります。その間、メッセージ事業の助成金をもとにした大小さまざまなイベントが企画され、アートを軸にしたさまざまな活動が生まれていきました。

第2期のポイントは「ゆるやかな行政主導と市民参加」だね。この「市民参加」の部分がアートスフィア。

ここで特徴的だったのは、行政がアートスフィアの予算を厳しく割り振らなかったこと。実行委員会をつくって、そこで自由に決めてくれといってやってもらった。

このとき町が何を目指していたのかはあんまりはっきりしないんだけど(笑)、ひとつ確かなのは、芸術村で観光客を5倍に増やそうっていう政策は考えてなかったってこと。これは芸術村に限らないんだけれども、藤野はさ、いつも「身の丈」なのよ。だから有名な芸術家を呼ぼうなんて誰も考えてなかったよ。

毎年11月に開催される「サニーサイドウォーク」。賢一さんのご自宅も会場のひとつとなっています

そして「ゆるやかな行政主導」にあたるのが、賢一さんや正道さんが進めた「移住希望者への空き家・土地の斡旋」です。これが「アートスフィア以上に、今の藤野を支えるポイントになっている」と賢一さんは言います。

芸術村構想によって注目され始めた藤野には、自然派の芸術家をはじめ、多くの移住希望者が現れ始めました。賢一さんや正道さんは、当初は職務の一環として、そういった人々に積極的に空き家や土地を斡旋していったのです。

よそ者は警戒され、家を貸してもらうことは今以上に難しかった時代です。しかし、行政職員であり、地元民でもある彼らの信頼や説得によって、多くの人が移住者を受け入れてくれました。そして気づけば、藤野の芸術家人口は300人を超えていたのです。

移住誘致の宣伝は特にしなかったし、芸術家にもこだわらなかったよ。ただ、とにかくきた人は排除せずに受け入れた。役場にくる移住希望者なんてね、正直変わり者ばっかりなんだよ(笑)。でも藤野はそういう人を排除しなかった。そうやって受け入れているうちに、気がついたらまちの北から南までアットランダムにいろいろな人が移り住んで、三百数十の点ができてたの。

つまり藤野では、企業を誘致したり産業を発展させるのではなく、まずは人を誘致していったということです。

移住者が増えるということは、当然、人的資源が増えることにつながります。しかも、そういった人々が自由に使えるメッセージ事業の予算もある。当然、面白い企画が次々と立ち上がっていきます。するとどうやら芸術に理解のあるユニークなまちがあるらしいと噂になり、その噂を聞きつけた人がまた移住してくる、というプラスのスパイラルが起き始めたのです。

それは即効性のあるわかりやすい経済効果は産みませんでした。でも、長い時間をかけてまちに活力を与え、じわじわとその成果を現していきます。

藤野にふさわしいキーワードは「寛容」

ちなみに、積極的に空き家の斡旋を進めていた賢一さんですが、のちにメッセージ事業の直接の担当者になるまでは、じつはまったく関係のない部署にいたそうです。それなのになぜ、メッセージ事業に携わっていたのでしょうか。

まぁ要は…(藤野町役場は)自由だったんだ(笑)。その頃は福祉課にいたんだけど、頼まれてもいないのに勝手に手伝ってたんだから。

藤野町役場はピラミッド型の組織ではなく、個人の思いややる気を尊重し、自由に行動させてくれるゆるい雰囲気があったのだそう。もし誰かが困っていたら誰かが助けるという良好な関係性も築かれていました。

その頃の役場はね、価値観がひとつじゃなかったの。上司の言うとおりにすることもあれば、きっぱりノーと言うときもあるっていうのが健全でしょう。藤野の役場はそういう態度が認められていた。さまざまな価値観がそのまま許容されていたんだよね。

ちなみに当時の役場の若い職員はさ、ちょっと尖った、変わり者ばっかりだったよ。俺なんてさ、藤野じゃなかったらきっと干されてたと思う(笑)。でもね、怒られはしたけど、俺みたいなやつでも役場は見捨てなかったよ。

ゆるさや自由さ、そしてさまざまな価値観を許容する懐の深さ。これは現在の藤野コミュニティにも共通する要素で、おそらくは、藤野という地域そのものの特性なのだと思います。こうした風土が町役場にもあったことで、若い職員の思い切った行動が認められ、メッセージ事業の内容を住民に委ねることにつながったのです。

藤野にふさわしいキーワードは「寛容」だよ。

原住民もね、非積極的かもしれないけど、ものすごく寛容な人たちばっかりなの。これはね、藤野が「ボーダー(境界)」だったことが関係してるんだよね。

藤野は、立地的に相模国と武蔵国と甲斐国で取り合いされた場所なの。それで情勢がいろいろ変わるから、新しいものが入ってくると、心からじゃないかもしれないけど排除しないようになった。

要はずっと昔から、そうやってうまいことやってきたんだよね(笑)。だから独立精神、起業精神みたいなものはイマイチないんだけど、芸術みたいな新しいもの、よそからくる変わった移住者なんかを受け入れることはできるんだよね。

なんと、藤野の風土や特性を裏付ける歴史的・地理的な要因も、実際にあったのです。

第3期:市民の自立

「空き家を斡旋することは藤野ふるさと芸術村構想を少しずつ進化させ、実現していくための民間活力になった」と賢一さん。2000年代に入ると、こうした移住誘致の流れから、個人だけでなく、パーマカルチャーセンターやシュタイナー学園などの団体も、藤野に拠点を構えるようになりました。

これも賢一さんが物件などの相談にのり、反対する住民を説得するなど積極的に動いたことによって実現したものです。都内でフリースクールとして運営していたシュタイナー学園は、藤野に移転すると同時に特区制度を活用し、シュタイナー教育が受けられる日本初の学校法人にもなりました。

そして2007年。藤野町は相模原市に吸収合併され、2010年に政令指定都市になります。そこで、地名としての藤野町は消滅しました。

これによって見事にいろいろなものを失うんだけど、そこからまた時代が変わるのよ。強力な行政主導に始まり、ゆるやかな行政主導と市民参加で発展してきて、次に何が起こったと思う?

第3期「市民の自立」が始まるのよ。

というか、自立せざるをえなかったの。

市町村合併によって、町役場は規模が縮小したまちづくりセンターとなり、行政の影はほとんどなくなってしまいました。以前のような潤沢な支援は期待できず、気軽に相談できる、顔の見える職員もいなくなりました。合併当時、メッセージ事業の予算が果たして残してもらえるのかどうか、関係者が戦々恐々としていたことを思い出します。住民自治は遠のいたかに見えました。

しかし、すでに何十年も市民参加を続けてきた藤野の住民が、何もせず諦めるわけはありませんでした。彼らはこの地域で楽しく心地よく暮らしていくために必要なことや面白いことを考え、自分たちで実践していったのです。

その最たるものは「トランジションタウン運動」でしょうか。

トランジションタウンは、イギリス南部のトットネスという小さなまちで始まり、全世界へ広がった市民運動です。持続可能な社会へ移行していくために、市民が自発的に地域の暮らしを考え、行動し、意識をもって日々の暮らし方を変えていこうとする運動で、そのために何をやるのかは明確に決められていません。「市民がやりたいと思ったことを自発的にやっていく」というのが特徴です。

そして2009年、日本で初めてトランジションタウン宣言をした藤野では「地域通貨よろづ屋」や「藤野電力」など、全国的に知られる活動が誕生しました。ひとりひとりの自発的な行動によって、地域の暮らしを豊かにする取り組みがたくさん生まれていったのです。

トランジションタウン運動から始まった「藤野電力」のミニ太陽光発電システム組立ワークショップは、全国各地で開催されるほどに

市民の自立を本当の意味で実現するためには何が必要か、その答えがここにはあるよね。たとえば、藤野町は金は出すけど口は出さないできた。わずかだったけれども、自由に使える予算があった。それが今になって思えば、いろいろな活動が生まれる背景になったんじゃないかなと思う。

だから、どういう歴史のもとに自立が始まったのかということを理解したら、行政はもっと積極的に予算を増やすはずだと思うんだけどな。あるいは積極的にゼロにするかもしれないけれども(笑)。でもこのことに、どこの行政もまだ気づいていないように思うな。

 

肯定されてきた子どもがすくすく育つように、好きなことをやっていいよ、行政が協力するよと言われてきた人々は、屈託のない行動力を身につけていきました。だから、いざ自立しなければならないという状況に置かれても、自分たちでなんとかするだけのバイタリティを、すでにもっていたのです。

芸術の力は、今ある世界の価値観を変えていく力

トランジションタウンの初期のイベントに集まった住民たち。すごい数!

それだけではありません。たとえば移住者の増加によって、藤野のいくつかの限界集落の人口が増え、持ち直した例があります。地域全体の人口は、高齢化もあって少しずつ減っているものの、シュタイナー学園の関係者や若い世代の移住が増えたことで、子どもの数は横ばいです。

さらに、移住者がいなければ今ごろは朽ちて廃屋と化していたであろう空き家が活用され、なかには事業の拠点となって経済効果をあげている例もあります。大規模な事業はそれほどありませんが、小さなお店や個人経営の会社などは増えています。

さっき「藤野は身の丈だ」と言ったよね。でも身の丈だって、いろいろなことが重なるとこれだけの経済効果があるというのは、外にものすごくアピールできるところだと思う。

芸術の力ってよくわからないけど、それが今ある世界の価値観を変えていく力だとすればだよ。藤野はいつのまにか人口の約4%もクリエイティブな人が集まって、人の減った限界集落を復活させ、期待もしてなかったGDPを生み出しているわけだよね。それが突き詰めれば、芸術の力っていうことなんだと思う。

 

芸術の力。それは芸術とは一見関係のない、ひとりひとりの自立心を養うことや地域の課題を解決することにもつながっていました。藤野における芸術は、やはり、地域そのものを創造するという大きな方向に発展しているのです。

新しいものを受け入れたことがまちに多様性を生んだ

プログラマー、音楽家、建築家、商店店主、デザイナー、芸術家、主婦、子ども、会社経営者、音響エンジニア、市議会議員、何やってるかわからない人…。ここに写っているだけでも本当にいろいろな人がいます

藤野にくる人の質もだんだん変わってきてるんだ。プレの時代からいた人には真面目な人が多かったけど、基本的にはみんなヒッピーだったよ。芸術家はもちろん多いけど、それからシュタイナーがきたり、パーマカルチャーがきたりして、いわゆるインテリが増えた。

昔アンケート調査をしたことがあったんだけど、藤野の住民ってものすごく高学歴なんだ。調査した大学の先生も驚いていたぐらい。それから、芸術家に限らずユニークな若者も集まるようになってきたよね。

 

私の友人知人を思い浮かべただけでも大学教授や医者、サラリーマンに会社社長、アーティスト、クリエイター、農家、職人、ヒッピー、もはや何をやっているのかわからない人まで、本当に多種多様な人がいます。面白いのは、普通なら相容れないはずのこうした人々が、藤野では当たり前に知り合いで、当たり前に仲良しで、楽しそうに話していることです。

つまりね、新しいものを受け入れてきたことがまちに多様性を生んでいったの。

パーマカルチャー、シュタイナー、トランジションタウン。「たんぽぽ」や「すずかけの家」みたいにユニークですばらしい福祉施設も生まれたし、移住した人のなかには医者が10人もいて、そのうち3人が藤野で開業したんだよ。こんな小さなまちですごいことじゃない? これはね、芸術村構想にはなかった未来だよ。

そういうことが、どれもぴったり重なることなく、重層的にアートスフィアとクロスした。三百数十の人間の点とアートスフィアの点、それから組織の点や活動の点。違った価値が少しずつ重なって今の藤野をつくりあげていった。

そういう、3つも4つも重層的に重なったところって、さっきも言った「ボーダー(境界)」なのよ。ボーダーには、多様性が出てくるものでしょう。もちろん、当時は誰もそんなこと気がついてなかったんだけど、結果的にそうなったの。

俺がアートスフィアだけで藤野を捉えようとするのは違うっていったのはそういうこと。もちろん、アートスフィアはすごく価値のあるもので、これからも継続してほしいと思ってる。でも藤野が今みたいになっていったのは、別に特定の何かのおかげじゃないのよ。おれは「中心のないネットワーク」っていってるんだけど、コミュニティとして、自然発生してきたのが今の藤野なの。

みんながみんな、できることをやってきた。好きなときに、好きなことをやってきた。たとえばさ、なかにはアートスフィアに否定的な人もいるわけじゃん。でも藤野ではそれが当たり前だとみんながわかってる。それが多様性で、だから面白くなるんだってわかってるんだよね。おれはそういう全体の流れが、ほかにない藤野のオリジナリティだと思うんだ。

アートスフィアは、ある種の文化になっている

藤野には、いつも何かが起こっている、いつも楽しいことがある、そんなワクワク感と、コミュニティに対する安心感が存在します。でもそれは、いくつもの要因が時間をかけて重なり合った結果、自然に生まれたもの。ただ、最初に意識的に種を蒔いたのがメッセージ事業だったことは、確かなのではないでしょうか。

アートスフィアのもっている基本的な価値は変わらない。これはもうね、ある種の文化だと思う。だからね、必要以上に手をかけないほうがいいよ。30年以上続けてきたら、歯がふたつみっつ欠けたってね、すべてがなくなるっていうことはないから。そこは長く続けてきた成果だと思う。

ここまできたら継続することに大きな意義があるんだ。マンネリ化はするだろうけれども、どうやったらマンネリが回避できるかなんてあんまり考えないほうがいい。だって続けていれば、新しい風は勝手に入ってくるんだからね。

継続すること。それはとても単純ですが、難しいことでもあります。メッセージ事業が今も続いている原動力はいったいなんなのでしょうか。

それは簡単だよ。関わってる人に利益があったんだよ。利益っていうのはお金のことじゃないよ。楽しいとかやりがいがあるとかそういうこと。だから義務ではなかったんだけどみんな続けた。というか、続いたんだな。

「フラワーオブライフ」を描くように

「まるで“フラワーオブライフ”みたいだね」

取材中、賢一さんの多様性の話を聞きながら、同行した藤野在住のカメラマンがそう話しました。

フラワーオブライフとは、同じ大きさの円を同じ間隔で重ねることで立ち現れる幾何学模様のこと。「神聖幾何学模様」とも呼ばれ、フラワーオブライフの円と円の重なりは「もっとも美しく安定した比率(黄金比)」とされています。そして、重なり合った円を俯瞰で見てみると、そこにはひとつの美しい模様が生まれているのです。それはまさに、多様性溢れる藤野を表しています。

より大きく、美しいフラワーオブライフが描かれていく様を、私たちはこの先、目撃していくことになるのでしょう。ときには当事者として円のひとつになりながら、ときには山のてっぺんから俯瞰で美しい模様を眺めながら。

芸術のまち・藤野は、すでに芸術という枠を越えて、広がり続けているのです。

(取材・執筆:平川友紀 写真:袴田和彦)

記事を書いた人
平川友紀(ひらかわ・ゆき)

リアリティを残し、行間を拾う、ストーリーライター/文筆家。1979年生まれ。20代前半を音楽インディーズ雑誌の編集長として過ごし、生き方や表現について多くのミュージシャンから影響を受けた。2006年、神奈川県の里山のまち、旧藤野町(相模原市緑区)に移住。多様性のあるコミュニティにすっかり魅了され、現在はまちづくり、暮らしなどを主なテーマに執筆中。きのこぷらんにんぐメンバー。元ひかり祭り実行委員会メンバー。ぐるっとお散歩篠原展参加。その他、藤野でのさまざまなイベントや地域活動に関わっている。現在は山々に囲まれた篠原地区の奥地に居住。藤野では「まんぼう」の愛称で親しまれ、藤野地区の魅力を発信し続けている。

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